2024年11月14日に完結を迎えた【推しの子】。1か月後の12月18日に最終巻と小説第二弾が発売されました。
今回は最終巻のあとがき部分と小説第二弾の感想を書いていきます!
最近の近況・個人的な【推しの子】に対する心境。
さて、約1か月ぶりに【推しの子】の感想を書きます。正直な所、今回感想記事を書くのは億劫でした。
原作があれだけ最低な終わり方をして、最終話が公開後に1週間以上かけて思いの丈を総評記事でぶちまけました。あれで自分が抱えていた不満は全てダイジェスト出来たので、このまま【推しの子】には一切触れないのが個人的には一番幸せだったと思います。
しかし、実際はSNS等で【推しの子】を否が応でも目に入れさせられたので、その度に嫌な気持ちにさせられて精神衛生上はあまり良くありませんでした。小説や最終巻が発売されるまで【推しの子】に触れるのは極力避けるつもりでしたが、中々そうはさせてくれませんでした。
そして、いよいよ最後のコンテンツが投下されたという感じです。これからも【推しの子】に触れさせられるでしょうが、それはもうそういうものとして受け入れるしかありませんね。
そういう心境なので、今回の感想記事は発売日から少し遅れてしまいました。他と比べて後回しにしても良いと思える位には優先度が低くなっています。
ちなみに、実写の方はこの感想記事を書く時点ではまだ見ていません。世間の評価としては「概ね好評だが、それはあくまで原作と比較してのことであり、原作を大まかになぞっている分、駄作であることに変わりはない」という所でしょうか。
実写を見るかどうかは、この感想記事を書く段階では未だ決めていません。しかし、仮に見たとしても、十中八九実写の感想記事は書かないでしょう。
そしてアニメ3期の感想記事も書かないとなると、おそらくこれが最後の【推しの子】の記事になります。
小説感想。
さて、小説の感想を書いていきましょう。箇条書きかつ散逸的な文章になるかもしれませんが、ご了承いただければ幸いです。
プロローグ
まず、最初の数ページを読んだ感想、それは「辛い」ですね。
今回の小説のメインは、【推しの子】の人気キャラクターの二大巨頭である有馬かなと黒川あかねということで、冒頭は両者の口論となっていました。冒頭のプロローグ部分は、時系列としてはアクアの死後となっていますので、この描写には個人的に落胆させられました。
二人の口論は幼少期からありましたが、アクあかが破局した後もいがみ合いが続いています。個人的には、いつまでこんなことをやっているのか、原作から引き続き両者とも幼稚で成長が感じられないという点で、最初の数ページから読み進めるのが辛かったです。
何とか頑張ってプロローグを終えたら、その次の第一章からは過去回想に移っていました。第一章以降は比較的読みやすかったです。
小説はプロローグ・第一章~第四章・エピローグの計6章になっていました。プロローグとエピローグの時系列がアクアの死後の話で、中間の第一章~第四章は過去にかなとあかねが受けたオーディションの話でした。
一次審査前
ここからは中間のオーディションの話の感想をつらつらと。まず書くことは有馬かなの母親についてですね。
有馬かなの母親は、分かりやすく毒親でした。滅茶苦茶分かりやすい他責思考する人間でした。
この考えが結局今も昔も変わらずということで、後の話にも繋がりますが、とにかく救いがありません。原作の展開を考えるとこういう結論にせざるを得ないのは理解できますが、原作のせいで普通のストーリーではあるべき救いや報いのある展開が書けなくなっている印象です。
父親も、母親に愛想を尽かしたという割には娘のかなへの愛情も無いという感じです。少しでもかなのことを考えることが出来ていたら、少しでも親として娘を母親から引き離して救う気があるなら、他の女を好きになるなんてことはないでしょう。
一次審査
有馬かなの両親の話の次は、いよいよオーディションの話になります。オーディションは結果的に1次審査と2次審査の2回行われましたが、基本的には有馬かながメインでした。
物語を書くのに有馬かなの方が書きやすいという事でしょうか。もちろん、有馬かなメインで黒川あかねサブでも全然構いませんが、ストーリー全体を踏まえると、有馬かなをメインに据えただけの結果になっていないと感じます。
先述した通り、せっかく丹精込めて何十ページも物語が書かれているのに、最終的にあるべきカタルシスがありません。冒頭で有馬かなの両親の毒親ぶりが語られたのに対して、最終的に母親がオーディションを通して何か心変わりした訳ではないからです。
ここに原作の展開の都合を感じます。もし原作という足枷が無ければ、この物語の結末はきっと変わっていたでしょう。
余談ですが、原作で語られていた「映画撮影時に事務所に入っていない子役を使うと怒られる」の話は、小学六年生の有馬かなには適用されないのでしょうか。ここについては、抜け漏れがあったということですかね。
さあ、ここからは一次審査のパートで気になった部分を書きます。まず有馬かなが思い出す幼少期のアクアについて。
かなとアクアが出会ったのはアクアが約1歳半、かなが約2歳半の時です。本作の過去回想部分はかなが12歳半頃の話なので、10年のブランクがあります。
幼少期のかなにこんなことを言うのも酷かと思いますが、そんなにアクアが気になるのであれば何故会いに行かなかったのかというのは(この小説に限らず)常々思います。
そして、かなが親に影響を受けてスタッフに横柄な態度を取っていたことが間違いであることに気づくまでにも10年かかっています。アクアや五反田監督の言葉の意味が理解できるようになるまでに時間がかかったのかもしれませんが、それでも10年は長すぎる印象です。
普通は時間が経ち過ぎていて忘れていると思います。10年経ったも二人の言動を覚えていたら、それが日常的に頭に引っかかることによって、行動がそれに準じた形で変わる気がします。
2つ目に気になったのは、オーディションの試験内容などが様々な事が有馬かなに有利だった点です。まず1次審査は「空気役を演じる」という内容だったのですが、その空気役を演じるのに土台となるシチュエーションが「夫婦の口論」という有馬かなの家庭環境に重なるものになっていました。
原作でも書かれていたことですが、かなの演技論は「自分の中にあるものから膨らませたり抑えたりする」というものです。自身の経験から演技に繋げる都合上、自身の過去の経験によって演技の良し悪しが決まる側面が大きいと考えられます。
その意味で、両親とも毒親である有馬かなは「夫婦の口論」というシチュエーションに対して感情を引き出しやすいでしょうし、審査に合格しやすいと思います。もし有馬かなにとって経験の無いシチュエーションがお題に上がっていたらどう演技したのか個人的に気になります。
それこそ経験が全くないシチュエーションがお題として出されれば、かなにとってはピンチだったと思いますから、その時初めて女優としての真価が問われただろうと思います。まあ、今回は結論ありきの脚本ですから、あまりかなに主人公らしい行動はさせなられなかったのでしょうけど。
それと、正直審査の内容を聞いた段階で、有馬かながどういう演技をするか私には想像が出来てしまいました。だからこそ余計に読んでいて引っかかった訳ですけど。
逆に黒川あかねはどういう演技をするか想像できなかったです。ただ、実際に演じるシーンを読むと、(他者を理解しないと出来ない演技をしているという意味で)なるほどあかねらしいと思いました。
3つ目に気になるのは、映画の監督である虹野がやたら有馬かな推しな件。確かにオーディションを受けるために土下座までした有馬かなに好感を受けるというのはあり得ると思いますが、そこからオーディションを受ける人の中で最推しにまでなるのかという疑問はあります。
そもそもオーディションを受ける段階で、虹野が有馬かなをやたら良く知っているんですよね。その時点で公平なオーディションをしていないと感じました。
しかもこれらの違和感に対して、「虹野は変人である」ということで予防線を張っているんですよね。こういうのを見ると、つくづく「有馬かなに優しい世界」だなと感じます。
4つ目に気になるのは、有馬かなのオーディションの時の態度です。1次審査を終えてから2次審査を受けるまでのあかねに対してもそうですが、なぜ同じオーディションを受ける仲間に対して上から目線かつ高慢な態度を取れるのかよく分かりませんでした。
有馬かなが芸能界から爪弾きにされて行き場を失ったのは、現場での高慢な態度が原因です。そのせいで子役事務所から契約を解除されたのに、その後のオーディション内で何故エミリやあかねに上から目線かつ高圧的なのか意味不明です。
確かにエミリやリコに面と向かって嫌味を言われました。しかし、だからといって有馬かなには高圧的に返せる余裕などありません。
一方、作中では嫌味を言うエミリやリコに対して、かなは実力で黙らせるような凄い演技を1次審査でしていました。あくまで作中でそう表現されていただけですが、この展開を踏まえるともっと良い返し方があったと思います。
5つ目に気になったのは「隠れた才能を持つ天才」よりも「分かりやすく目立つ凡人」という虹野の評価です。おそらく「隠れた才能を持つ天才→黒川あかね」、「分かりやすく目立つ凡人→有馬かな」ということかと思いますが、あかねはともかく、かなへの評価としては変だと感じました。
少なくとも有馬かなは凡人ではないだろうと思います。むしろ作中では成長してなお天才と評される部類かと思いますので、前後の文脈とは合ってない印象です。
特に1次審査における有馬かなの演技は、大人顔負けの演技であるかのように表現されていました。1次審査で夫役になった男優と妻役になった女優はプロですから、そこに小学生の段階で見劣りしない演技が出来るのは凡人ではないだろうと思います。
ということで、以上5つが一次審査の展開を見ていて引っかかった点です。6つ目からは一次審査以降の気になった点になります。
二次審査までの準備期間。
二次審査は、予選を通過した4人が二人二組に分かれた上で「慈愛の女神」という演目を演じるという内容でした。この演目は、女神と村娘の二人が出て来る分かりやすい勧善懲悪ものと作中では紹介されています。
しかし、正直内容を読んだ段階で勧善懲悪とは程遠い、女神が何か企んだであろうことは丸わかりなストーリーだと個人的には感じます。まあ、小学生にはこのストーリーが勧善懲悪モノに見えるということですかね。
さて、二次審査はかなとあかねがペアを組むことが決まったので、一次審査後はかなとあかねの絡みが一気に増えます。二人のやり取りを見ると、やはり(良い意味で)どちらもまだまだ未熟であることが伺える内容でした。
まずあかねは相手の懐に入るのが早過ぎますね。話を切り出すタイミングや間が悪く、他の人との距離感が上手く取れていません。
そして言動が鋭すぎます。言葉が鋭い分、かなの神経を逆撫でするのも当然という所です。
さらに鋭く切り込む割には、最後まで追求することが出来ず中途半端です。作中ではかなの激高に怯えて最後まで踏み込むことが出来ていません。
踏み込むなら最後まで踏み込まないと、かなの考えがどれだけ間違っているか伝わらないでしょう。繰り返しにはなりますが、作中の小学生のあかねには未熟さが感じられます。
ちなみにかながあかねに対して指摘したことが2つありましたが、個人的には片方は合っていて、もう片方は合ってないと思います。これはかなからの視点だけでなく、著者の視点も含まれていると思いますので、なおのこと指摘すべきと考えました。
まず「黒川あかねには自分がない」という指摘ですが、これは違うでしょう。あかねは幼少期から他人の特徴を読み取る力に長けていて、父親のアドバイスもあり、小学生の時点で曲がりなりにもプロファイリングして、他人をコピーすることが出来ていました。
作中では真似っこが出来るだけで自分が無いと指摘していますが、他人をコピーできることも立派な個性であり、他人には必ずしも真似できないことだと思います。なぜならプロファイリングは他人を読み取る力の上に立脚しており、それが無いと出来ないことだからです。
他にもあかねには良くも悪くも様々な特徴があります。もちろんあかね自身に確たる芯がある訳ではありませんが、少なくともあかねに自分が無いというのは、この文脈からは適切ではないと感じます。
逆に「あかねは他人の心の機微に気づかない」という指摘は、個人的には正しいと思います。
先述した通り、相手に深く潜り込んでいくためにはそれなりに過程が必要で、アプローチの仕方というものがあると思います。個人的にあかねにはそこがまだ未熟であるというのが小説を読んだだけでも感じることではありました。
あかねは思考が男性的で女性らしくないというのをSNS等でよく見かけます。そこには、おそらくあかねが感情よりも論理で話を組み立てているからなのではないかと思います。
かなは明らかに論理よりも感情が優先されていますよね。親に褒めて欲しいという願望も、作中で書かれている通り、とても論理的だとは言えません。
結果的にかなはオーディションを通して救われていません。母親に勘当され、最終的に母親から褒めてもらうことを諦めるようになっていますから、「親に褒めて欲しい」という考えは根本的に間違っていると言えます。
正直な話、子のためにならない毒親は子の方から勘当して良いと思います。自分を認めてくれる人というのは必ずしも自分の親である必要はないからです。
その意味で、どん底に堕ちても尚かなを高く評価してくれるあかねの存在は貴重と言えるでしょう。高確率でかなの内面を言い当てることが出来て、ファンとしてかなのことを想うことが出来る人が居るというのは、とても幸せなことだと思います。
かなにはあかねを友人として大切にして欲しいですね。原作では矢印が全く無くて残酷なことになっていますけど。
もしあかねに胸の内を話せていたら、きっとかなは原作の展開より良い方向でキャリアアップ出来ていたと思います。そしてあかねともっと仲良く出来ただろうと思います。
実際はあかねがよく考えずに言葉を発してしまいますから、あかねに図星を突かれることに対する反発心やプライドが有馬かなの作中での言動に繋がっている面はあるでしょう。そういう意味では、せっかく仲良くなれそうなのに惜しいです。
確かにかなはオーディション中ですら高圧的かつ礼儀知らずです。体に染みついているというレベルだと感じます。
性格的に少しでもミスるとすぐに他人に嫌われかねない危うさがあります。相手が姫川大輝だからぎりぎりセーフでいられますが、誰に対してもこの態度だと良い印象を与えられないのは当然と言えますね。
ただ、気の強さ自体は悪いことではありません。二次審査までの準備期間が良い例ですが、忌憚のない意見を言い合う上で遠慮していては良い物は出来上がらないですからね。
要は使い所を見誤るなという事ですね。それはあかねに対しても同様です。
最後にあかねがかなに指摘していた「芸能界から敬遠されていたのは有馬かなではなく、かなの母親」という指摘について。これは個人的には間違っていると思います。
この点については、かなが言う通り「かな自身も悪い」というのが個人的にも正解だと思います。かな自身がそれを自覚することで、かながもっと成長できるはずだったのですが、それを原作に物語を繋げる都合で潰されていた印象です。
小説に限らず原作でもそうですが、どうしても「かなちゃんは何も悪くない」みたいな論調に持っていきがちです。それが彼女の成長を機会を潰し、さらに作品全体の評価を下げていると思うのですが、やはり悪癖は抜けないですね。
二次審査
二次審査は完全に原作に話を繋げるための都合というのがアリアリと感じられる話でした。特に有馬かなの最後の演技は個人的には理解できませんでしたね。
理解できなかったのは、別に有馬かなが悪かったという訳ではありません。むしろ二次審査における有馬かなの演技は正しかったと思います。
エミリ・リコのペアとあかね・かなのペアで台本は同じだったはずです。だとすれば、演目のラストで両者の内容が全然違うのはおかしいと思います。
あかねの演技プランである「村娘が女神を拒絶し、最後に村娘にスポットライトを当てる」ですが、完全にこれは台本には無い内容と考えられます。普通は台本の中でどう演技するかが重要なのであって、台本を変えるというのは御法度ではないでしょうか。
一体台本はどうなっているのか非常に疑問に思いました。台本の範囲内での演技であれば、一番正しい判断をしたのはかなだと思います。
しかし、結果はかなが突然演技を変えたことで、あかね・虹野・姫川が失望し、選ばれたのは黒川あかねということで終わっています。正直この内容には納得できませんでした。
とはいえ、東京ブレイドの2.5次元舞台の本番の時もそうでしたが、本番中で突然演技を変えるのは明らかに有馬かなのダメな所だと思います。突然演技を変えたら、変える内容がどうであれ、共演者は困惑するでしょう。
演技プランを変えるなら、稽古中に言うべきです。虹野の評価とは全く別の観点で、今回のオーディションでかなは選ばれるべきではなかったと思います。
ということで、二次審査に対する感想は以上です。何にしても、小説の展開はあと少しの所で良い終わり方に出来たものを、後の展開の都合で無理にバッドエンドにしている感じです。
ロジカルでない合理性に欠ける展開になっているのは、原作の頭のおかしな展開が原因でしょう。やはり原作は炎上して当然のクソ展開ですし、アニメではまだ修正が間に合うので、展開を変えて欲しい所ですね。
小説で判明した衝撃設定:あかねの父が警察官であることについて。
さて、二次審査の後はエピローグになる訳ですが、ここで一つ言及しておかなければいけない重要な設定があります。それは「あかねの父親が警察官である」という設定です。
この設定は、原作本編の悪い流れを一変させる項目として個人的に考えていた設定ではありました。しかし原作があのラストを迎えたため、あかねの父親は警察官ではないし、あかねが大人に頼ることは出来なかったのだろうと思っていました。
しかし、今回そうではなかったことが明らかになりました。あかねのプロファイリング能力は、今回の話を通して警察官である父親から教えられたものでした。
もしあかねの父親が警察官なのであれば、あかねがアクアの復讐に関して父親に相談することぐらい出来たはずです。あかねは小説内で有馬かなに関して父親に相談することが出来ていましたから、なおのことですね。
作者曰く【推しの子】は「ディスコミュニケーション」が一つのテーマだそうです。であれば、あかねが父親に相談が出来たことはとても大きなことだと思います。
結果としては、かなと仲違いしてしまったあかねですが、それは相手との距離感を間違えたのが原因であり、プロファイリングとは別の問題です。曲がりなりにも相手を観察・分析したからこそ一次審査は通過できましたし、これが成功体験となってあかねは今後飛躍していきます。
つまり「コミュニケーションできた」ことが、あかねにとって展開を正の方向へ転換することに繋がっています。これが原作本編でもできていれば、あんなラストにはならなかったでしょう。
話を少し戻して、あかねの父親が警察官であるならば、どのタイミングであれ、あかねが父親に相談していればあかねの父親はアクアの復讐の解決に尽力したと思います。警察は民事には不干渉というのが基本ですが、娘のあかねに対して父親が全力で手助けしたことは容易に想像できます。
アクアの復讐劇には大人が一切関わりません。もし大人が介入していれば、アクアは自らの命を落とすことなく、カミキを逮捕に持ち込むことが出来たでしょう。
結局、原作本編は「ディスコミュニケーション」という言葉を言い訳にして、本来あるべき展開をカット・省略しているように見えます。物語を最後まで描き切ることを面倒くさがり、あの展開で決着させてしまおうという考えは、作品にも読者にも誠実さに欠けていたと考えます。
ということで新設定に対する文句は以上ですが、もう一つ思ったことは、もしあかねの父親が警察官で、かつ「あかねが父親にアクアの復讐について相談できていたらどうなっていたのか」ということです。
その想定での展開は非常に気になりますよね。おそらくあかねが半ば主人公の【推しの子】になっていたと思いますが、是非読んでみたいと思いました。
エピローグ
さて、最後のエピローグは過去回想が終わってアクアの死後に時系列が戻ります。エピローグは有馬かなと黒川あかねがその後どうなったかという事が描かれていました。
個人的には、原作本編終了後・アクアの死後については、もう期待していたものとは違いますので何も思いません。黒川あかねも当初の期待とはズレていますから、彼女に対しても何も思いません。
ただただ気色悪い。結局は全てがゴミ。黒川あかねをそういうキャラに結論付けた開発スタッフ陣に怒りが湧いてきます。
そして、あかねがツクヨミと映画以外で接触しているという事実を知ってさらにツッコミたくなりましたね。あかねとツクヨミが接触できるなら、何故アクアが死ぬ前にもっと接触しておかなかったのでしょうか。
あかねとあかねの父親がもっと出張っていれば、アクアが死ぬことなくカミキを討ち倒すことが出来たはずです。結局結論ありきで、キャラクターから考えてストーリーを考えていなかったということでしょうね。
さらに、ルビーの様子は小説では一切描かれませんでした。ルビーは本編があまりにダイジェストだったので消化不良感が凄かったのですが、まあ最終話が公開される前に描いた小説だから頭のおかしな状況が覆されるなんてことはあり得ないということでしょうね。
単行本最終巻あとがき部分感想。
単行本のあとがきは基本虚無です。色々と論を並べていますが、原作のクソ展開を考えれば全てが空虚で気持ち悪いですね。
如何に開発スタッフ陣の想定と実際の読者の評価がズレているかが証明されたという所でしょう。最終巻発売で炎上するのも当然という所ですね。
まとめ
以上、小説第二弾と単行本最終巻のあとがき部分の感想でした。今回でようやく正真正銘最後の【推しの子】感想記事になります。
何度も言いますが、結局結論ありきで物語を描き続け、キャラクター設定から立脚する脚本をしなかったことが、今日の【推しの子】の評価の原因と言えます。
これまで幾つか不満がありつつも、最終回で納得できる終わりになるだろうと信じていた読者を裏切ったことで、これまで耐えていた不満が一気に噴出して炎上しました。アクアが死ぬ理由・妥当性なんて小説やあとがきを踏まえても存在しません。
今の原作の評価を踏まえアニメがどう修正してくるのか、以前の記事で書いた通り問題が複数存在する状況なので、あまり期待せずに待とうと思います。
とりあえずアニメ3期がいつ放送されるかが重要でしょう。あまりに早いとストーリーに対する吟味はあまりされずに放送されるでしょうし、逆に延期されればされるほど期待値は上がると思います。
コメント
書き込みすみません。
カミキについては、165話で「殺人教唆にならない程度の関与しかしていない」と言われていたので、あかねの父親が協力しても逮捕は不可能だったと思います。
というか逮捕できるカミキを殺したとなるとますますアクアの行動が茶番になるので、そこはメタ的に見ても無理だと設定されているはずです。
いいえ。確かに「殺人教唆にならない程度の関与しかしていない」とありますが、では「どうして殺人教唆にならない程度」になるのかしっかりと深堀されているでしょうか。
結局のところ、サスペンスを詳細に書くのが面倒だからモノローグで「そういうもの」として濁して逃げたにすぎません。
貴方は「メタ的に見て無理」と言っていますが、それこそあかねの父親が警察官で、かつあかねが父親に相談していたら、メタ的に見て話が「アクアを死なさずにカミキを逮捕する」ように動いたでしょう。
サスペンスももっと詳細に書いていたと思います。
面倒というより「そもそも書く技量がない」のだと思いますよ。
矛盾する姫川家一家心中の時系列や、カミキがアイの病院の場所を知った方法等、サスペンスに関してはおかしいところだらけですし。
前提として、そもそも描けるなら逃げないし、掘り下げられるなら投げないでしょう。
>実写を見るかどうかは、この感想記事を書く段階では未だ決めていません。しかし、仮に見たとしても、十中八九実写の感想記事は書かないでしょう。
実写の映画版(ドラマ版は未見)を見てきました。
私の感想は「一本の映画としてはアレ(第一章を描いてからいきなり時間が飛んで第九章に入るという構成)だけど、あの最低な原作の実写化としてはよくぞここまでやってくれたと喝采したいくらいの作品」。
とにかく、スタッフ・キャストがものすご〜く頑張って作ってくれたのがスクリーンから伝わってきました。
〈脚本家〉原作から必要以上にストレスを感じさせるポイントをできる限りカットまたは改良し、「アクアの復讐譚」「アクアとルビーの物語」としてストーリーラインを分かりやすく整理してみせました。
〈監督〉全体的にシリアスなトーンで演出を統一し、その上でB小町のライブシーンなどには華がありました。
〈キャスト〉観てて恥ずかしくなるような人は一人もいませんでした。このツッコミどころの多いストーリーを役者さん達の演技力でそうとは感じさせないことがちゃんとやれてたと思います。
【推しの子】という物語をプロが本気で研磨すればこれだけちゃんとしたものができるんだなと観終わって嬉しくなりました。結末が●●でもそこに至る描き方を工夫すれば面白いものができる!
観る前は不安だったけど、ありがたいことに時間とお金を損したとは感じなかったしそれどころかまた映画館で観たりドラマ版を観てみたいとさえ思いました。
ブログ主様ももう【推しの子】にはほとほと愛想が尽きたという心境でしょうけど、この実写版は映画だけでも──わざわざ映画館に行くのが億劫なら配信やDVDという形ででも──ご覧になることをオススメします。(感想記事を書く書かないはその後で決めればよいことですし)
一本の映画としては駄作と評価されるかもしれませんが、少なくとも原作に感じた溜飲がかなり下がることは間違いないと私は思っています。(もしそうでなかったらゴメンなさい!)
ブログ主様、今年も力が入った【推しの子】の感想記事を多く読ませていただき楽しかったです。
残念ながら原作は最終的にあのようなことになってしまいましたが、それでブログ主様が記事を書くのに費やした時間と労力が無駄になったということにはなりません。(私に言われるまでもないと思いますが…)
ダイヤを見ながら渡る旅様、たくさんの魅力的な記事をありがとうございました!
コメントありがとうございます!ドラマの件については、参考にさせて頂きます。
またいつも感想記事をご覧くださりありがとうございます。十中八九【推しの子】の記事は更新しないと思いますが、楽しんでいただけたのであれば幸いです。
お疲れさまでした。長編失礼します。
小説ですが、まず重曹ちゃんに『オーディションを受ける為に、土下座する』これがもうアウトですね。ドクターXの海老名教授じゃないんだからw
実写が割と高評価なのは、原作が映画『ノウィング』のラストの地球みたいに、炎上して丸焼きになったから、相対的に『多少マシに見える』だけでは。(丸焼きのシーンだけは、ユーチューブで見れるw)原作よりは救いは有ったから、そこは良かったです。興行収入は、ドクターXや、働く細胞はおろか、『孤独のグルメ』にすら負けるかと。
カミキは、ニノよりGAKUTOさんの方が良かったのではw(牛肉とカンガルー肉の区別もつかない、おバカ二人のせいで今年も消えたw)
アニメ3期以降の改変に付いての意見は多いですが、実際問題中止一択では。原作終盤や、最終巻を『賛否両論』とか記事になってましたが、賛否両論=賛成と反対が同程度なので、全く不適切な表現ですw。どう見ても『大本営発表』で、悪名高い『台湾沖航空戦』くらいの現実との乖離があるかと。
そんな現状なので、アニメは中止一択でしょう(もしくは無期限放置)。中止が一番ダメージが少ないです。それほど惜しむ声も無いかと。
中止は無理と言う意見も有りますが、国家も関与している大阪万博や、今更困難なので無理なので止めますとは言えない、北海道新幹線の札幌延伸や、北陸新幹線の大阪延伸みたいに、
『進めているフリ』だけでもしなくてはならない計画に比べれば、中止は遙かに楽。
スポンサー達に、『まともな判断力……それ所か、戦時中のガダルカナル島や、キスカ島からの撤退を決断した、軍上層部程度の判断力が有れば』、中止に大きく傾くかと。
放映枠は、時期的にフリーレン2期か、転スラ4期辺りの放映枠の一部に転用されるのでは。
コメントありがとうございます。
実写に関しては、まだ見てないので評価が出来ず、参考程度とさせていただきます。
アニメについては、本文に書いた通り、いつ放送されるかというのが重要だと思います。
なんだかんだ人気コンテンツなので遅かれ早かれ3期を放送するでしょう。
それと、「中止に出来ない」の例に出されていた北海道新幹線の札幌延伸や北陸新幹線の新大阪延伸は、私は賛成派です。
中止は無理どころか建設しないとJRの経営状態や在来線のダイヤに悪影響を及ぼすことが確実なので、どんなに時間と金がかかろうと建設すべきだと思います。